【研修医日記】人の死について、感情が鈍ってきてる?【救急科ローテ】

こんにちは、研修医アッキーです。

今現在、私は救急科を長期間でローテしてます。

救急科ローテをしていると人の死に直面することが多いです。

最近、ふとした瞬間に「人の死」に対する感情に対して我に帰る瞬間があったので、そのことについて話します。

目次

救急科という特殊な環境

救急科は主に緊急疾患、例えば心筋梗塞、脳卒中、交通事故などなど死に直結しそうな疾患が多く運ばれてきます。

患者やその家族から見ると一大事、不安など多くあると思います。

しかし私たちにとっては日常的に目にしている光景、ただフローチャートに沿って診療していくだけです。

心筋梗塞の場合は、血液検査して、心エコーして、心電図見て、診断したらカテーテル治療へ回す。

脳梗塞・出血の場合も、頭部CTまたはMRIとって診断したら、あとは手術や投薬などに回す。

最初の頃は不安だらけで、どうしよう・・って焦りながら診療していましたが、救急科をずっと回っていてそのような疾患が毎日のように来ると、割と何も考えなくてもできるようになってきます。

そんな中最近、ふと我に帰ることがありました。

それは「心停止」の高齢者が運ばれてくる時でした。

救急搬送の一報の時点で「もう助からない」「看取り前提」といった雰囲気が流れていました。

というのも90代以上の患者であり、そのようなご高齢な患者が心停止で見つかる場合には、ほぼ助かりません。基本的に寿命です。

仮に心臓だけ動いたとしても、低酸素血症は必発、意識は戻ることはなく、そのうちお亡くなりになります。

連日そのような搬送が来るので、いつも通りの流れで、心臓マッサージしてアドレナリンして、看取り・・・

そのような流れで皆が無心で医療行為をして、さてお看取りしよう。そう思っていました。

「このまま心臓マッサージをしても助かる見込みはありません。もうやめていいですか?」

上記のようなことを患者に伝えます。

しかし、その患者家族は現実を受け入れられないようで、号泣して患者本人にずっと必死に声を掛けていました。

「おばあちゃん!・・・」

心臓マッサージを止めることは死を受け入れることであるので、なかなか決断できず・・・

「これ以上、心臓マッサージをすることはご本人の体を傷付けるだけです、肋骨はもうボロボロです。」

このような説明を繰り返し、やっと納得していただけ、そのままお看取りしました。

医療者にとっての日常との乖離

その時に、私たちにとっては日常的な一幕ですが、患者家族にとっては人生にとっての一大事であることをふと我にかえりました。

死ぬことは辛いこと、悲しいことというのは、もちろん分かっていましたが、普段目にすることが多すぎて言葉では表現しにくいですが、なんとなく当たり前の光景として認識してしまっていることに気がつきました。

自殺の患者もよく運ばれてきますが、ふとそのようなことを考えると、辛い気持ちになることが多いです。

普通に自分が朝ごはん食べていた時間に決断したこの人は、どのような気持ちだったんだろう?

綺麗に服が着られている本人を見て、どのような気持ちで服を着て家を出たんだろう?

などなど我に帰ると、なんか衝撃?ふと我にかえります。

ですが、もっと上の先生はそんなことより死亡診断書だの、警察への連絡だの、その合間に他の救急対応など、考える暇もなさそうに働いています。

私はまだ医師2年目の若造なので、そのようにふと我にかえることがよくありますが、このまま年を取るにつれてこういう感情も薄れていくのかなーと思いました。

学生時代に初めて見た心停止の患者の衝撃を考えると、すでに感覚が麻痺している気もします。

このような感情が失われていくことは、なんか悲しい?気持ちもありますが、いちいち感情的になっていたら仕事にならない側面もあります。

そう感じたここ最近の救急科ローテでした。

このブログは研修医になってから書き始めましたが、最初の方の記事を見返すと自分も成長しつつ、色々変わってきたなとも感じた今日この頃でした。

以上です!

本日もご覧頂きありがとうございました!

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